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3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代の田中七郎名人のモデルは大山康晴!生い立ちや伝説まとめ

3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代という原作3月のライオンのスピンオフ作品に出てくる田中名人(十五世名人)がいますが、実はこのキャラクターにはモデルが存在します。その名も大山康晴!!
大山康晴は将棋界では言わずと知れた大大大スターです。今でこそ羽生善治先生が将棋界で大スターになっていますが、その羽生先生にも負けない程の記録を残しています。今回はその生い立ちや性格、棋風などについて見ていきましょう。



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大山康晴の生い立ちは?

 1923年(大正12年)3月13日 岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれます。5歳の頃に将棋を覚え、将棋の才覚を発揮します。3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代の田中七郎は生い立ちがひどく描かれていますが、大山康晴はそのようなことはなかったようです。大山先生の実家では、い草の花筵(はなむしろ)業を営んでおり、楽ではないしろその時代では余裕のある生活をしています。大山先生の出身の岡山県倉敷市はい草業が江戸時代から続いており、明治~昭和30年頃までは世界一を誇るい草生産地区だったようです。
 また、5歳で将棋を覚えたといいますが、コレがまたすごく、大山先生の家の近くにあった自転車屋さんの前が縁台将棋のたまり場になっていて、それを見ているうちに自然と将棋を覚えてしまいます。やはり、将棋界で大スターになるような人はひと味違います。
 大山康晴の父も早くから息子を将棋棋士にすると決めており、知り合いからの仲介を経て、将棋界の大棋士木見金治郎へと弟子入りさせます。弟子入りのために、岡山を発つ際には、大勢の同級生がのぼり旗を持ち寄って集まり見送り、電車に乗ったときに「入隊ですか」と勘違いされたようです。当時はたくさんの人から見送られることは入隊のときくらいですから勘違いもされますね。しかし、将棋棋士に弟子入りすることが一大事だったことがこのエピソードからわかります。
 昭和10年に木見金治郎に内弟子入りします。木見師匠の家の仕事をしながら修行時代へと入ります。家の仕事といっても、掃除や犬の散歩、お使いなどの使いっ走りです。
 大山康晴のラジオ対局も有名です。当時18歳?であった大山先生と○○が対局しました。その当時最盛期を迎えていた相掛かりで大山が研究手の新手を出し見事快勝をおさめます。この新手は当時のプロ棋士の間でも話題となり、そのような新手を編み出す程の才能をすでに発揮しています。
 

性格は

 大山康晴はよく盤外戦略を取ることが取りただされているので、性格が悪い印象がありますが、そのようなことはなかったようです。
 こんなエピソードがあります。上記でも触れた弟子入りのため岡山を発つときののぼり旗を自分の和服の裏生地に使ったのです。また、大山先生は岡山県の故郷に頻繁に行き来しており、ふるさとを大切にしていますし、そこまで性格は悪くなかったのではないかと推測します。

 まぁ盤外戦略はたくさん使われています。例えば対局中にわざと自分が食べないおやつを頼んで、対局相手の加藤一二三先生に食べさせています。これはおなか一杯にして思考力を削ごうとしたのではと言われています。いまとなっては本人がなくなられているので真相は闇のなかですが。

 



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棋風は?

棋風は受け将棋で有名!

 将棋の棋風はいろいろありますが、大山将棋は「受け将棋」で有名です。管理人レベルでは、プロの棋風うんぬんはよくわかりませんが、何度か棋譜並べをした感じでは受け将棋というか盤全体を使って将棋をしている印象を受けました。
 また、相手の攻め駒を攻めるB面攻撃も得意で、木村一基先生とはまた別の受け将棋な印象を受けました。ただ、低級の私の感想ですから、あまり信用しないでね(笑)
 ただこれは確実にいえますが、大山将棋は指しきり(相手が指す手なしの状態)や受けきって簡単な攻めを間に合わせる将棋が多いのです。現代は詰ましたり、必死などをかけたりして勝つプロ棋士が多いと思います。というか昔もそんな将棋が多かったと思いますが。受けを軸に考えているのでしょう。自玉を安全にしてから、数手の余裕を作ってから、攻めへ転じる。逆転負けが少ない勝ちにこだわった指し手を選ぶから「受け将棋」と見られたのでしょう。

受け将棋になったのはなぜか?

駒の活用を最大限意識できるのは「中将棋」のおかげです。
私は自分の棋風は攻め将棋だと思っていますが、攻めは飛車、銀、桂、角で、受けは玉周辺の金銀3枚を意識しています。
しかし、大山先生は盤面全体をつかって攻めたり、受けたりする将棋なのです。大山先生が振り飛車をするときには左の金を囲いとは逆に使うことが多いのですが、中盤~終盤にかけて気がつくと金が玉の囲い周辺で守りに使われています。
この感覚が養われた大きな要因の一つに師匠木見金治郎との「中将棋」を挙げています。師匠の木見金治郎は将棋以外に囲碁や中将棋も嗜んでおり、その影響で大山少年も「中将棋」に魅了された。「中将棋」は将棋と違い、駒の種類が多く複雑な戦いになりやすい。そのため、複雑な局面でも、駒を最大限活かした駒組みができるのでしょう。
元々は攻め将棋だった?
 幼少期は攻め将棋だったようです。しかし、兄弟子の大野源一先生、升田幸三先生の2人にしごかれ続けた結果「受け将棋」になったといわれています。それもそのはず、この二人はのちにプロ棋士になり、トップクラスの実力者です。その二人の攻めを受け続けていれば当然受けが強くなります。しかも大野源一先生に対しては、弱点を見つけたのか、プロ棋士になってからは負けていないようです。升田幸三先生は生涯のライバルとして、名人戦をはじめ、さまざまなタイトルを争っています。
悪手を指させるのが得意
現代的に言えば、様子見のために端をつくことが多いとは思いますが、大山将棋も端を突いて様子見します。あえてふわっとした様子見の手を指して相手が間違えやすい局面を作り、様子見をしていく中で相手が悪手を指した時に一気にそれをとがめるのです。相手はたまったものではないです。プロ棋士相手にここまで多くの悪手を指させた棋士は数少ないでしょう。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

大山康晴先生について記載されているものは多いですので、まだまだ逸話が眠っていそうです。あまり知られていないものがあればまた、記事にしてみようと思います。



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